昭和49年03月18日 朝の御理解



 御神訓 一、「天に任せよ 地にすがれよ。」

 「天に任せよ」この御教えは、何かもう人間の知恵・力では及ばない。言わば、「運を天に任せる」と言った様な時の御教えの様な感じが致します。成程それもありましょうけれども、私はそうではないと思うですね。是は日々がそうであらなければ金光様の御信心にならないとすら私は思います。毎日毎日が天に任せた生き方、それでいて地にすがった。昨日の御理解の中に、「天然地念」と言う事を申しましたね。
 「天然」とは自然の然という字の天然。「地念」と言う事は、地に念ずると言う字。同んなじ矢張り意味だと思うんですけども、「天然地念」と言う風に頂きますと、何かこう受ける感じが何か、「運を天に任せる」と言わない時にのものではなくて、何か日々の中にそれを感じますですね。自然に日々起きて来る事を、それは大変難しい事もあるけれども、それを大地の様な心でそれを念ずる。いわゆる受けて行こうと言う様な生き方に感ずる。理屈は私は同んなじだとこう思います。
 此の地にすがれと言う所をですね、「天に任せよ人にすがれよ」と言った様な風に成り勝ちな所ですね。天然の事ですから、もういよいよの時には、もうそれこそ天に任せるけれども、まだ自分でどうか出来る間は任せられない。と言った様な物ではないんですね。天に任せると云う事は、やるしこなってどうにも出来んから、それから先は運を天に任せる。言うなら人事を尽くして天に任せる。
 運に任せるという、それとは意味が違うんですね。「天に任せる」と言う事は、日々がもう神様任せの生き方だと言う事、今日私はそう言う風に頂いた。「地にすがる」と言う事は、いわゆる人事を尽くすと言う様な意味で、まぁ人に縋るとか物に頼ると言った様な物でない。とにかく所謂地念である。其処で私どもは地に縋ると言う事がです、自然に様々な問題が日々起きて参ります。一日たりとも同じ日はありません。
 ですから神様のそういう一つの働きを、私共は素直に受けて行くと言うか、それが中々難しいのですから、其処を地に縋ってそれを合掌して受けて行こうという行き方に成る訳ですが、「地にすがる」と言う事の内容ですね。是は本当のおかげの受けられる受け物を作らせて下さい。と言う願いでなからなければならんと思うです。地に縋ると言う事、言うならば例えば、起きて来たその問題なら問題と言う物をです、本当の受け方をさせて下さいと言う事だと思うんです。真実のだから生き方を目指す。
 そこには地に縋らなければおられない。言うならば地の信心をさせて頂く以外にはない。私どもは一々字引を引いて、是が本当の字だと言う風に、答えが出て来れば良いけれども、もうそれこそ起きて来る一つの問題が色々違う訳ですね。ですからどうぞ本当の受け方、本当の生き方をさして下さい。まあ言うならば世の中には余りにも本当が多過ぎるのです。けれども、その時点時点で、矢張り是が本当だと言う生き方、受け方をさして下さいと言う願いに立たなければいけん。
 私は今朝からお夢を頂いたんですけれども、まぁ掻い摘んで申しますと、ある方が、何と申しますかね、非常にまぁ言うならば嘘の名人とでも申しましょうかね、偽りの生活ですね。けれども大変体よくやっております。初めの間はね、初めは丁度狐と狸のね狐と狸がこう一緒になって、ぐるぐる回っている様なですね所を頂いたんです。それが狐と狸の図案化なんです。それがくるくる回って居りますから、一つの紋の様になって、その方の家の家紋の様になっとる。
 もうそこの家はうそを言うて、代々繁盛して来たと言う様な感じなんです。狐と狸の騙し合いがその家の家柄になってしまっておる。自分は見事にうそを言うて居る積りですけれども、ごまかせたと思うて居りますけれども、結局は狐と狸のだまし合いだと言う訳なんです。そしてそれがぎりぎりのところに追い込まれてしまってね、大変なそのう難儀なことになってある。
 それを私のところへ飛び込んできて、助けを求めておると言う感じなんです。そこで私もそれをなら御取次して助けてやろうと思って、なかなか手が届かないと言う感じなんです。ね。そうして居るところへ其の人が大変日頃可愛がっておる人。又は此の人だけには真実で生きて来たと言う人が、其の人の前をすうっと通るんですよ。それけん其の人に又助けてくれとその人言って居る訳です。その人はそれを見て見らん振りしてツー行くと言うところを頂いた。
 私は今日の御理解にどう言う風に関わり合いが有るだろうかと思うておった。だから結局は本当に信心させて頂く者は教祖の神様が実意な生き方と、実意とは実の意と書いてある。私は本当な事だ。言うなら真心だとだから真実と言う事。真実の裏はだから嘘の生き方言う、虚実の生き方ということになるわけですね。もう人を騙さなければ損のように思うておる。そして騙し得たと思うておる。
 ところが愈々実際の事に成って参りますと、「天知る地知る 我を知る」であって、人は知るまいと思うて居るけれども天が知って居るのであり、地が知って居るのであり自分自身が知って居るのですから、何時の間にか其処の言わば苦しみに成らなければならない。心の呵責又はそれを人にあの人はああいう嘘の生き方をしておったんだと言う時に、今まで騙されていた人も一辺にその人を信用を失ってしまう。
 成程自分は嘘の生き方をして来たけれども、此の人だけには真実の愛なら真実の愛を注いで来たのにと思うて居るけれども、確かにその人には真実を注いで来たけれども、その真実を注いで来た人にもです。愈々助けてくれと言う時には、その真実が解った時にです。その人も見て見らん振りしてそこを通って行くと言う様な哀れな事柄のお夢であった。世の中はまぁ、狐と狸の騙し合いだと言われる程しに、本当な事は少ないのですけれども、そういう中にあってなら、教祖の神様の生きられ方というのは。
 「真実一路」という言葉を申しますが、真実一路を求めておいでになられた。それで今日是が本当だと言う事が、より本当な事を解らせて頂いたら、より本当の事に成って行ったという生き方です。それを私は「実意丁寧神信心」な生き方だと思うんです。それが金光教の信心の芯なんです。そう言うおかげを頂かせて、そう言う世界におかげを頂き、そう言う信心を頂きながら、私が今日頂いた人は、もう言うならごまかしの名人である。だから誰でもごまかされとる。
 けれども結局は「天知る地知る我知る」であって、愈々それが暴露した時にはね、今まで騙して居った人からね、信用を落とす分は構いませんよ。それは仕方がないですよね。本当に騙して来たんだから、けれども此の人だけには真実であったという、真実を捧げて来た人迄もです、もうその人の前を見て見らん振りして「助けてくれ」と。こう言うておるけれども、知らん振りして通って行くと、言った様な哀れな事になるのです。結末は。ね。成程「正直の頭に神宿る」と言う様な言葉がありますけれども。
 本当にそうだなあと。だから正直でない頭には神は宿らんと言う事に成るのです。ね。それはもう言うならば神様がです、もう改まるであろう。もう真実の生き方に成るであろうと思うて大目に見て下さっておっても、ぎりぎり断を下された時には、そういう哀れな事に成らなければならんのですから、私共は本当に真実な生き方。だから私は今日は天に任せて地に縋れよと言う所をです。地に縋ると言う事。
 天に任せよ地に縋れよと言う事は、何かもう運を天に任せなにゃしようがなか、と言う様な時に、是は頂く御教の様にも思うておった。例えばもう、医者がもう此の病人は助からんと言う。もう神様にお縋りするより他にはないという。そういう時に頂く御教えの様な感じであった。けれども「天然地念」と言う事が、こんな同じ意義を持つものであるとするならば、「天然地念」という頂き方に成って来ると、そう言う物ではないと言う事。天然と言う事は、日々がです。
 自然に起きて来るその問題その物を感じますでしょう。天然という言葉には。ね。だからその問題を此処で言う、成り行きを大切にして御事柄として受けて行くと言う様な生き方なんです。ですから、言うならばおかげの本当のおかげが受けられる、真実の生き方に成らして下さいと、私は地に縋るとはそう言う事だと言う風に今日は思うのです。だから皆さんもそう言う積りで聞いて頂きたいと思うんです。ね。
 真実のおかげが頂ける様な私にならせて頂く事んの為に、その事柄もうそれを言うならば大切にさせて頂こうと言う事になるのです。昨日は合楽会で私はその事を非常に強調して聞いて頂いたんです。大切にすると言う事です。ね。人を先ず大切にしなければならない。自分自身をまた大切にしなければならない。例えば、私が昨日ここを下がってから、何か腹がくじくじしますから、ちょっと下痢を致しました。
 だから下痢でもするという時には、確かにお腹の具合がどうか普通ではない時なのですから、私は家内に言うてすぐにお粥さんを炊いて貰ました。そしてお粥さんを頂きました。是は自分を大切にするだけで、別に言うなら腹がその時痛んでもなかったし、どうと言う事はないんです。ね。だから私共がアラッとこう思うたらです。すぐお粥さんを炊かせる。お菜は梅干しでという生き方にすぐ成らなければいけないです。
 是は事柄の場合でもそうですね。そして矢張り自分がどこにか身体をお粗末にして来た事をお詫びしなければいけないですね。お金が足らん。行き詰まったという時にですね。お金が有り余っとる時と同じ様な生き方をするから、それが借金になるのですね。あいたこりゃお金に行き詰まったと思ったら、すぐにですねお腹の言わば下痢なら下痢によってお腹が正常じゃないぞと言わばお知らせを頂いた様なもんですから、すぐお粥と梅干しに切り替える様にですね。
 例えば行き詰まった何かにね。頭をガンとたたかれる様な思いをした時に、ハッと自分に吾に返って今までその事は、大して大切にして居なかった。言うならお金であるならば、お金を大切にして居なっかった事をお詫びをさして頂いて、今まで百円の生活をしよったならば、五十円の生活なら五十円の生活に、パッと切り替えて行かにゃいかんです。そういう生き方が私は大切にする事だと思うんです。ね。是は自分自身をやっぱり大切にしなければならない。ね。
 そしてお金も大切にせにゃいかん、物も大切にせにゃならんと言う事がです。ね。全てのことに全ての物に「御」の字を付けさして頂かなければいけないと言う事になります。事柄にもを大切にする。時間も大切にする。ね。大切にするから又大切にされるんです。家内が俺を軽く見とる。子供が親でん何でん親と思とらん。と親が思うたり主人が言うたりすると言う事はおかしい事です信心では、家内が自分を例えば大切にしてくれないと言う事は、私自身が家内を大切にしていないのです。
 そして大切にせずして自分だけ大切にしたいと、ね。お金を大切にせずして、金に不自由する。ね。大切にされないから金の方が逃げて行く。大切にするから金の方も又大切に集まって来る。ね。私は金光様の御信心は、そういうそのそう言う生き方を本当の生き方とされたと思うんです。ね。私は人何時でしたか、あるご信者さんじゃないです。ある方達それも大した方ではないですまぁ言うならば。
 けれども私はそう言う時に必ず、表まで送る事にしていますもうあのう事情が許す限り。ね。例えば私の部屋から、子駒でこう七曲がりか八曲がりありますよ廊下がこうおう、ね。それで人を送り出す時には私は必ず付いてから表まで出て来る事にしとるです。けども「もう親先生、もうここで結構です。結構です」と言うから「ああそんならば」と言うて、それでも二つか三つ位私は角を出て来るです。そしてその人が廊下の一番向こうまで行くまで、こちらで私はあのう帰りのさよならを言う事にしています。
 あるとき公子さんが、「もう、親先生は本当に人を大切にされますなあ」と言うて、ほとほと感心したと言う様な顔をして言われてから、ははあ私は本当に人を大切にしよるなと、自分で思いました事があります。此の人はまあ程度の低い人、此の人はまあ自分よりも目下の人、と言う様な頂き方はです、私は人を粗末にしておると思うですね。本当に神様の氏子としての頂き方をしたら、皆んな同んなじに私はあのーね、人を大切にしなければいけない。だから人から又大切にされるんです。
 私はもう本当に、皆さんも気が付いとられるでしょうけど、必ず外まで其処に履物が、私の履物があったら必ず外まで出る事にしてるです。是は誰の時でもあのう此処の御結界以外におる時ですよ。そしてその人がならバスの停留所に行くまでは、やっぱり後ろで、御祈念をしております。自動車が見えん様なるまで、私は合掌してその自動車を拝みます。是は誰彼の区別はないです。ね。
 ですから先ず歩いてバス停まで行く人達なんかやっぱ、ちょっと振り返って見ると、まあだ私が立っとるもんですから、また改めてこうやってお辞儀をして行かれると言う様に、是はね、人を大切にしておるのがそういう形に現われておるのです。だからそういう生き方で、お金ならお金でも出した後を拝んで、それが本当にお役に立つ様に、ああ惜しか惜しかで出すとはいかん。大切にしなければならない。まあそんな事を話させて頂いた中にです、昨日久留米の光橋先生がお届けした事をお話した事です。
 今こん度息子さんが嫁御を貰ますから、家が綺麗になりよる。特に炊事場が綺麗になる。「それにもう親先生、私は感心します。家のお婆ちゃんの人を大事にしなさるとを。もう大工さん達が今入っとりますが、もうその代わりよう「甘い物を大工さんに早く買うてこんの」と言って、甘いものを出さっしゃる。もう帰りにはちょっとこうすると煙草の一つも持たせてやんなさる。だから大工さんどんが、もう大変そのおばあちゃんに帰依して、もうあそこには古材木が沢山あるとから。
 もう何でん古材木でから是ば生かしてから使おう。もう窓でん何でん昔のやつば二つに切ってから、こう具合ようしてから使うて頂くから、お金が掛からんで済む。ね。けれども私はそれを聞きながら思いました。そすと光橋先生はそう言う事は一つもしませんけれども、神様の方だけには一生懸命な事を尽くす訳です。どちらが大切にする事かと言う事なんですよ。お婆ちゃんは大切に使用なさるけれども、此れには神様の一番お嫌いになる条件が付いておるです。
 これ百円がたしときゃ千円がたぐりゃまたするがのと言う気持ちが有る訳です。ここに煙草の一ちょうも、ね。百円の煙草を握らしときゃです。その位のこっじゃない、言わば働いてくれると言う汚い汚い条件が付いとるです。しかしそれが普通一般信心のない人達の人を大切にすると言うのはそう言う事でしょう。此処で此の人にお茶一杯でも出しとくと、この次何かまたお土産位持って来るじゃろうと言う様な、まあそう言う事ははっきり無かろうけれど、そう言う様な物があって大事にしよるのでは。
 本当に大事にする子とじゃないです。それはむしろ私は汚いと思うです。心の中じゃね、此処で煙草の一ちょうでも握らしときゃ、古材の焚物の事あるとでも使うてでんと、だからそう言う事をするから、折角新しいのでして貰えるのを、古材木でしてもらいよるけんで結果はマイナスになるです。そう言う生き方は目先は如何にも利用したごとあったり、けれどもね結果はそうじゃない。
 だから人を大切にすると言う様な事でもね、私は本当に、例えば普通の信心の無い者が大切にする様な大切の仕方ではいけないと言う事です。信心させて頂く者は何処も、教えに基付いての大切でなけりゃいけないと言う事です。ちょっとお話が横道に入った様ですけれども、そういう生き方を地に縋って本当の生き方を解らして下さい。例えば光橋先生が千円なら千円のお供えをしておると致しましょう。
 人間になら五百円で済むかも知れません。お茶どん出したら、お菓子どん出したら煙草どん持たせる事なら、けれども光橋先生はより本当な事をしておる。だから一見見た目にゃ気が付かんとか、親切がないとか言われる様な場合が有るかも知れませんけれどもです、それは本当の結果が生まれないです。是は例えばあのー薬を飲むとか、医者に掛かると言う事でもそうですよ。
 それはお願いをして薬も飲む、お願いをして医者にも掛かるのですからね、良い様なもんですけども、真実の生き方と言う事が本当に身に付いて来たら、とてもおかしゅうて薬だん飲まれんと言う事に成って来るです。真実の生き方だからちぃっとは難しか。ね。もう第一ですね、そう言う真実の生き方になると、昨日の御理解じゃないけれど、もうそれこそ士農工商と言う様な足ろうたおかげが頂ける様に成って来るです。言うならばもう病気をせんでも済む、ケガせんでも済む様なおかげに成って来るです。
 真実の生き方は。薬を飲み、医者にも掛かるけん、年中薬を飲まにゃ、年中医者に掛からんならん様な事がずうーっと起きて来るです。だから本当な事を解らして頂くと云う事は、矢張り此の地に縋ると言う信心が出来なければいけない。安易な目先の事だけでね楽になると言った様な生き方は、本当の生き方じゃない。言うならば嘘の生き方です。と言うてなら今私が頂いている生き方が本当かと言うと、ならそうでもない。ならより本当があるに違いない。
 だからより本当を解らして頂いたらもうすぐ、より本当な事になって行かなければならないのだけれども、これは本当ではないと言う事が解っておりながら、それを一生その事をなして行くと言う事は、結局嘘の生き方をすると言う事になる。だから、私今朝お夢の中で頂いた様に、嘘の生き方ですから、本当の良い結果が生まれて来るはずありません。此の事だけには真実であったと言うても、其の事までも水の泡になってしまう様な結果しか生まれて来ない。ね。
 其処でなら私共がですね、信心さして貰う者の姿勢として、嘘をそのまま続ける事ではなくて、是が本当だと思うたらです、それに切り替え、乗り換えして行く信心を身に付けなければならない。言うなら真実一路を目指さなければならないと言う事なんです。ね。なら私の生き方がなら本当。今は本当と思っておるけれども、明日は本当ではないと気が付いたら、もうそこに切り替えて行くという生き方なんです。そういう生き方を私は真実一路の生き方だとこう思うです。
 こげな嘘じゃいけんいけんと思いながら、例えば一生を過ごすと言った様な事ではね、それこそ人を騙したり、上手に騙し終えたと思うとりましてもです、それは騙し終えた事ではなくて、長年積み上げて来た物まで水の泡になる。此の人だけには真実の事を言うて来た。真実の愛を注いで来たと言う人までも、もう顧みられなくなってしまう。だから言うならこげな馬鹿らしい事はない。「泥棒をして儲け出ぇたちゅうもんはおらん」と昔から言われております。ね。
 ガバーッと盗って来るとじゃけん、もうえらい儲け出ぇたとごたるけれども、もうとにかく「泥棒で分限者になったという者がおらん」と昔から言われておる。どこどかでガバーッと引かれとるからです。私共はそりゃあ大げさな言い方ですけれども、そういう同んなじ様なね、それこそ此の世は狐と狸の騙し合いの世界だから、騙し勝った者が勝ちだと言う様な考え方は捨てなければいけないです。いや本当言うたら大損です。そう言う事は。騙した者から信用を落とすのは、こりゃ止むを得ません。
 自分が騙して来たっちゃから。嘘を言うて来たから又嘘を言われても仕方がありません。けれども此の人だけには本当の事を言うて来た。此の人だけには真実を注いできたという人からまでも、裏切られなきゃならなく成って来るですから。こげな馬鹿な哀れな話はありませんよ。だからそう言う生き方を身に付けさして下さいと言う願いが地念であり、地に縋ると言う事だと思うです。今日は「天に任せよ地にすがれよ」と言う事を、今日は聞いて頂いた様な内容でです。
 聞いて頂いた訳なんです。それには結局本当のことをしなければいけない。本当な事を言わなければいけない。それが私共では、本当か本当でないかが分からない。いや是がほんな事だと思い込んで居る様な場合もあります。けれどもですそれが本当ではないと気が付かせて頂いたらです、すぐにそれを切り替えて行くおかげを頂かにゃいけません。成程此処でお茶の一杯も煙草の一つもあげたら、その人は成程その人の為にその煙草代がたと言わん位に、言うならば目先は都合の良くしてくれるかも知れません。
 けれどもそれはその人が只そこの家にある廃物利用をしてくれたと言うだけであって、それは何処迄も廃物であって、古物ですから結果においては損だとい雨事です。少しでん高く付いたっちゃ良かけん、新しい材木を使うてやって貰った方が、本当は為に成るんだと言う事です。ね。その真実の生き方というのは、私共の言わば真実な生き方をして来なかった者に対してはです、大変難しい事なんです矢張り。私共は一生涯の中にです、もうそれこそ大変ややこしい道ばかり歩いて来ておりますからね。
 中々真の道に出ると云う事は難しいですけれども、そこん所を、地に縋る生き方をさして貰ってですね、その時点を有難く頂かしてもらう。いわゆる天に任せてです、その事は天に任せて、それは神様が私に求めなさる、いわゆる天然のそれは御働きだと思うてですそれを受ける。受けると言う事は大変難しい。難しい所をです、地に縋ってそれを受けて行こうという生き方、そういう生き方をいよいよ身に付けて行かならんと言う事を、今日は「天に任せよ 地にすがれよ」という御神訓から頂きました訳ですね。
   どうぞ。